表示行為と、内心意思の食い違いのことだが、簡単に言うと「実は知ってた」 とか、
「そうじゃないのになぁ」とかそういった意思をもった行為だと思うが、皆も絶対に経験があるはずだ。
前に書いたが当事者意識の中に出てくる傍観者のように ある場面においては、嫌いな行為だが、とはいえ、もちろん言えない場合や言えない状況も多々ある。 しかし言わなければいけない場面においての心裡留保はどうなんだろうか?
心裡留保は、たとえ知っていても、その表示行為が有効となり、内心意思は無効となるもの。 イジメグループに賛同していて、「実はかわいそうだ、やめたいと思っていたんだ」といってもその思いは無効だ。 しっかり考えて行動したいね。
その気持ちが本当であれば、このケースはまだ可愛げがあるが、「汚れることを知っていながら、汚さないから貸して」とか、「こわれそうだと知っていた自転車を友達に貸した」とか、このケースは確信的部分があって可愛げはないね。 このようないわゆる嘘の場合、相手がそれを知っていたとしても行った行為は有効になってしまう。
そしてもう一つ。 責任がふりかかりそうな場合に、それを避けようとするケース。これは傍観者効果と似ているが 「2人で遊んでいた1つのおもちゃがこわれてしまい、2人とも壊れたことを知りながらも親に報告せず放置した」 など。
いずれも子供を前提に例を出したが、大人の場合ももっと多いんだと思う。
大抵、心裡留保の多い人間ほど言い訳が多く、否定的発言はあっても、肯定的発言力がない。そのくせプライドだけはしっかりと持っているというケースが多い。 一番厄介だな 笑 そんな人間にはなりたくないね。
もちろん嘘も方便と言うとおり、必要なケースだってある。 しかし、発言すべきことは、しっかりと発言し、皆でそれを共有していきたいと思う。
社会人となって早20年が経過した。 某大手自動車会社へ就職し、幸いにも、どの分野、部門にもコンタクトの取れる部署で働かせてもらうことができ、且つすばらしい上司や、仲間にも出会うことができた。 そして、自動車の設計や、既存構造の見直し、市場トラブル対応など専門的部分に突っ込んだことを約11年学ばせてもらった。 ここでの経験は本当に自分の誇りだ。
しかしあらゆる経験は、「何事も当事者にならないと出来ない」とも同時に感じていたし、今になっては当事者になれたからこそ経験ができたのだと実感している。
それは、数百人はいる人員の中の業務では、その大半が傍観者そのものと感じることは少なくなかったからだ。 人間は、傍観者にまわってしまえば、考えることや努力することをやめてしまう。 確かに楽ではあるが、進歩することは絶対にありえない。 仮に高度な技術を身に着けていたものだったとしても通用するのは1人畑の中だけだ。 昔「やらぬは出来ぬと同じこと」 みたいに上司に良く言われた。
一方、当事者になろうとする人間は、言い方はおかしいが、おのずと経験を余儀なくされるわけだ。 まぁ 頑張っている人間ほど大変になってしまう。 出来る人間に仕事が集まってしまう。 構図はこれに似ていると思う。 逆もしかりだ。
しかし、当事者意識を持てる人間はなかなかいないと思う。 仕事は与えられている場合がほとんどだし、率先してそのような意識が沸くことはなかなかないのだろう。自分もそうだったが、何もわざわざ大変なことに首を突っ込む必要があるのだろうか??
と考えてしまうことは多かったかもしれない。 反面「そうである自分に自分が許せなくなる」ということも多くあったのだ。
全ては自分のためにやっていた。 笑 しかしこれは自分勝手な思考ではなく、 「相手のためになるから自分のためにもなる」 といった思いがある。
当事者になれば、コミュニケーションがとれる = 信頼が生まれる = 評価につながる = 協力し合える これがいわゆる学びであって経験。 傍観者では絶対に出来ないことだ。 大変だが傍観者な人生より絶対に面白いことが多いハズだ。
なるべく多くの人たちと当事者意識を共有していきたいと思っている。 若い人たちには特に。 自分が昔、先輩や上司から得た経験を、そのまま伝えてやりたいと思っている。
スキルより先に、当事者意識、責任を持って自己を高めていく。 おのずとスキルはついてくる 結果長く良い物(長期的スタンダード)を提供し続けられる。 これがいわゆる「本物」だとおもっている。
自分には程遠いが、惜しまずチャレンジはしていきたいと思う!!
普段、みんなもこのワーキングメモリー、知らずといろんな場面でフル活用していると思う。
「他のことをしながら、別なことを一時的に考え記憶に留めておく機能」だが、最近大分この記憶量と記憶の維持時間が低下してきた気がする。 普段、なにかとメモをとり抑えている人をみるが、自分はこれまでの社会人活動の中で、手帳を持ち、予定などのメモをとったことがない。
いまでも1日30件超の電話を受け、いろいろと仕事のヤリトリをしているが、そのほとんどが作業中または、移動中といった状態。 一旦メモをとることは当然できない状況がほとんどだ。 同時に3つも4つも重なるときもある。 それを一旦メモリーし、即時行うものは行い、そうでないものは会社のデスクについてから、まとめあげている。 ワーキングメモリーは自分にとってはかなり重要なアイテムとなっている。 おそらくこの機能がなければ、既に壊滅しているにちがいない。 そう考えると恐ろしい。 たかが数分の記憶と思ってしまうが。。
それがこのところ1つ2つ思い出せないものが出でくる。 メモリーしたこと自体は覚えているが、内容が出てこないことが多くなった。
反面、最近に始まったことではないが、自分は思いついたアイデアや、気付き事項など日常のタスクを忘れないよう、殴り書きでメモをとることが非常に多い。 しかし、そのメモを実際に実行するまでには時間がかかり、その間に紛失したり、書いた字がよめなかったりすることがある。 そして同じ思いつきを何度も繰り返し、また同じメモをとる。 振り返ると類似事項のメモ用紙がすごい枚数になっているのだ。 笑
実はこのワーキングメモリー、日常のタスクなど、なんでもかんでもメモにとりすぎていると、メモリー機能が低下する。 結果いろいろな作業の見落としや、ミスが多くなっていくことにつながるみたいだ。
自分は、仕事上でのメモはしないものの、このようなケースでのメモが多すぎて、実はワーキングメモリーを低下させているのかもしれない。
メモをとるものと、取らないものを上手に使いわけていく術(テクニック)をもっと磨く必要があるのかもしれない。
それと、アイデアを出すのに重要な情報などは、メモのままではなく、何度も読み返し完全に記憶させることがポイントらしい。 一歩先の進歩を遂げるためのキーになるとのことだ。 たしかに日常のタスクをそこまで熟読し、完全な記憶にとどめたことはない。 今後ぜひチャレンジしていきたいと思う。
そして日常のタスクはというと、情報と情報の結びつき。 必要な情報が整理することが大切のよう。 情報が整理されていればメモリーの中でいつでも導き出すことが可能となり、メモをとってはいけないことみたいだ。 これも習慣付にチャレンジしていけたらと思う。
考えればわかる簡単なことのようだが、実践するのは難しいのかもしれない。 ちょっとした情報の記憶、いままでと少し違う目線で捉え、接し方を少し変えてみるだけで、可能性の幅とスピードが変わるのではないだろうか。
「情報の本当の有効活用方法」 みなさんにも是非、チャレンジしてもらいたいと思う。
拙速(せっそく)は巧遅(こうち)に勝る。 または、「巧遅は拙速に如かず」という"兵法"の格言がある。 自分はこの格言が大好きだし、その通りだといままでの経験を踏まえ痛感して思う。
拙速とは、つたなくても速いことで、巧遅とはたくみでも遅いこと。つまり、おおざっぱに言うと完璧でなくとも「仕事が早い」にこしたことはないという意味。私の経験でも、巧遅(こうち)>拙速(せっそく)の構図で仕事がうまくいったためしがほとんどない。
もちろん完璧をもとめることは、素晴らしいことだが、やることはひとつではないし、時間をかけすぎて「機」を逃しては元も子もないということだ。
完璧を求めることが悪いということではなく、仕事に粗さが「多少」残っても処理スピードを上げることを心がける。この「多少」というのがツボで、拙速といえどもちろん限度はある。いくら早いとはいえ、あまりにも雑すぎたり、内容がずさんであると信頼を大きく損ねてしまうのは当然。時間切れは全くの論外として、品質の最大化と時間の最短化という矛盾をしっかり理解できてこそ一人前になるコツだと自分は思う。
誰だって社会人一年生から「巧速」なわけではない。しかしおもいの他、「巧遅」な人は意外と多いのだ。成長過程において「巧遅よりも拙速」ということを最大限に「意識し」、仕事に打ち込んだその結果として「巧速」の仕事術、考案術を身につけることができるのだと思う。
せっかく仕事をしているのだから、意識し、頑張っていこう!!
兵法では うまくやろうとして戦いを長引かせるよりも、長期化したときの損害を考えて早めに始めてしまった方 がよいと説いているようだ。時間に余裕がないと、損害対策もできず、そこで「打止」というわけだ。